6.25韓国戦争、そして
70年のパノラマ

1950年6月25日日曜日午前4時 北韓軍の奇襲攻撃によって始まった民族の悲劇、韓国戦争 そして、その後の70年… 銃声と砲声、戦争の爪痕による叫喚は止んで久しいですが、 分断の悲しみは、今なお終わっていません。 ときには衝突し反目したものの、決して諦めることなく 平和な、ひとつの祖国を目指し歩んできた70年を振り返ります。

韓国戦争の背景

1945年8月15日、韓半島は夢に見た光復、独立を迎えました。
しかし、35年におよぶ日本の植民地支配から解放された喜びも束の間、
自由陣営を代表するアメリカと共産陣営を代表するソ連の冷戦が深刻化し 韓半島を取り巻く緊張も高まりました。
アメリカとソ連の軍政の下、結局、北緯38度線を境に 南と北 は、互いに異なる道を歩むことになりました。

その後、38度線を隔てて南北は、何度も軍事的な衝突を繰り返しました。
戦争の機運は、この頃から徐々に高まっていたのです。

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韓国戦争の勃発

1950年6月25日、いつもと変わらない平和な日曜日の明け方でした。
当時、韓国軍の司令部では人事異動があり、
韓国の多くの兵士は外出や農繁期のために休暇をとっていました。
このような隙を狙った北韓は、
緻密な計画の下、38度線全域で韓国に対する無差別攻撃を行います。

破竹の勢いで南下してきた北韓は、
開戦から3日目の6月28日に首都ソウルを陥落し、南へと下ってきました。
そして、戦争が起きてからたった2か月で、洛東江(ナクトンガン)以南を除く韓半島全域が北韓軍の手に落ちてしまいました。

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国連軍の参戦

6月26日、国連安全保障理事会が緊急招集され、
北韓に対し、戦闘行為の即時中止と38度線以北への撤収を要求する決議案が可決されました。
それにもかかわらず、北韓が南侵を続けたことを受けて、
6月28日、国連は軍事的制裁を通じて平和を回復する決意を固め、
7月7日、国連軍司令部を創設。マッカーサー元帥を国連軍司令官に任命します。

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休戦協定の締結

1951年7月10日から始まった休戦に向けた交渉は、まる2年続き、
「世界最長の休戦会談」という珍記録を立てたのち、
1953年7月27日、ようやく幕を下ろしました。

休戦に向けた交渉で、国連軍と共産軍、両側の主張は始めから平行線をたどっていました。

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韓国戦争の結果

1950年6月25日から1953年7月27日まで
3年1か月、1129日間も続いたこの戦争で
韓国軍13万8000人が戦死し、45万人がけがを負いました。
行方不明者まで含めると、韓国軍の人命被害 はおよそ62万1000人に達します。

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  • The Korean War [Source: Yonhap News Agency] Source: Yonhap News Agency
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韓国戦争の背景

1945年8月15日、韓半島は夢に見た光復、独立を迎えました。
しかし、35年におよぶ日本の植民地支配から解放された喜びも束の間、
自由陣営を代表するアメリカと共産陣営を代表するソ連の冷戦が深刻化し 韓半島を取り巻く緊張も高まりました。
アメリカとソ連の軍政の下、結局、北緯38度線を境に 南と北 は、互いに異なる道を歩むことになりました。

その後、38度線を隔てて南北は、何度も軍事的な衝突を繰り返しました。
戦争の機運は、この頃から徐々に高まっていたのです。

韓国戦争の勃発

1950年6月25日、いつもと変わらない平和な日曜日の明け方でした。
当時、韓国軍の司令部では人事異動があり、
韓国の多くの兵士は外出や農繁期のために休暇をとっていました。
このような隙を狙った北韓は、
緻密な計画の下、38度線全域で韓国に対する無差別攻撃を行います。

破竹の勢いで南下してきた北韓は、
開戦から3日目の6月28日に首都ソウルを陥落し、南へと下ってきました。
そして、戦争が起きてからたった2か月で、洛東江(ナクトンガン)以南を除く韓半島全域が北韓軍の手に落ちてしまいました。

[1950年6月25日] 北韓軍が南侵, [1950年6月28日] 北韓軍がソウルを占領, [1950年7月末] 北韓軍が洛東江へ進出, [1950年8月1日] 韓国軍・国連軍が洛東江に防御ラインを構築, [1950年8月18日] 臨時首都を大邸から釜山に移転 - 出典:韓国国防部

国連軍の参戦

6月26日、国連安全保障理事会が緊急招集され、
北韓に対し、戦闘行為の即時中止と38度線以北への撤収を要求する決議案が可決されました。
それにもかかわらず、北韓が南侵を続けたことを受けて、
6月28日、国連は軍事的制裁を通じて平和を回復する決意を固め、
7月7日、国連軍司令部を創設。マッカーサー元帥を国連軍司令官に任命します。
韓国戦争当時、韓国と共に戦った国連軍参戦国は、21か国にのぼります。

戦闘に直接的に力を貸してくれた戦闘部隊派遣国は、
アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、トルコ、フィリピン、タイ、オランダ、コロンビア、ギリシャ、
ニュージーランド、エチオピア、ベルギー、フランス、南アフリカ共和国、ルクセンブルクの16か国で、
スウェーデン、インド、デンマーク、ノルウェー、イタリア、西ドイツは医療支援国として活動しました。
また、韓国戦争に直接参加しなかったものの、
物資の供給や財政支援をした国も少なくありません。

国連軍の参戦

国連軍の反撃と北進
​韓国軍と国連軍は1950年9月15日、電撃的に
仁川(インチョン)上陸作戦を敢行し、洛東江戦線における総反撃作戦を断行しました。
これにより戦況が一転し、北韓軍は9月23日以降、すべての戦線で後退を始めます。
9月28日、遂に首都ソウルを奪還し、10月1日には38度線も回復しました。
そして38度線を越えて北韓地域へと総反撃作戦を展開した末、
韓国軍と国連軍は10月19日に平壌(ピョンヤン)を占領し、元山(ウォンサン)、咸興(ハムン)を経て 国土統一を目前にします。
[1950年9月15日] 韓国軍・国連軍による仁川上陸作戦, [1950年9月28日] 韓国軍・国連軍がソウルを奪還, [1950年10月1日] 韓国軍が北緯38度線を突破, [1950年10月19日] 韓国軍・国連軍が平壌を占領、その後、鴨緑江(アムノッカン)に到達 - 出典:韓国国防部

国連軍の参戦

中共軍の侵攻と国連軍の再反撃
10月25日、中共軍(中国人民解放軍)の奇襲攻撃を受けます。
中共軍による未曾有の「人海戦術」によって、戦況は再び逆転しました。
韓国軍と国連軍は防御態勢を整える間もなく撤収を余儀なくされ、
1951年1月4日、またもやソウルを放棄し、戦略的後退を行います。
その後、反撃に出た国連軍は、中共軍の攻勢を防ぎつつ再び北へと進撃。
38度線を中心に戦線はこう着化し、消耗的な戦闘が繰り返されました。
そして1951年7月10日、休戦会談が始まり、
韓国戦争は新たな局面を迎えることになります。
[1950年10月25日] 中共軍が戦線に介入, [1951年1月4日] 1.4後退, [1951年3月15日] 韓国軍がソウルを再奪還 - 出典:韓国国防部

休戦協定の締結

1951年7月10日から始まった休戦に向けた交渉は、まる2年続き、
「世界最長の休戦会談」という珍記録を立てたのち、
1953年7月27日、ようやく幕を下ろしました。

休戦に向けた交渉で、国連軍と共産軍、両側の主張は始めから平行線をたどっていました。

  • 1 最も激しく対立したのは軍事境界線の設定でした。
    戦争以前の38度線を主張する共産軍側と
    それより北側に設定するべきだとした国連軍側の主張が対立するなか、
    会談は中断と再開を繰り返すという紆余曲折の末、1951年11月27日、
    当時、両側が接触していた全長237キロメートルの戦線を
    暫定的な軍事境界線に設定することで合意しました。
  • 2 もう1つの難題は捕虜の送還でした。
    国連軍は当初、「ジュネーブ協定」に基づき、すべての捕虜を北韓に送還する計画でしたが、
    多くの捕虜が帰還を拒否したのです。
    交渉は進まず、時間だけが流れていきました。
    結局、欧米のメディアや国際赤十字まで乗り出して世論を喚起させ、
    共産軍側も国連軍側が示した案に同意して、
    1953年6月、休戦会談における最大の難題とされた捕虜の送還問題が妥結しました。
  • 3 休戦が目前に近付いていましたが、不完全な分断について、韓国政府が反対しました。
    1953年4月、韓国の国会は休戦に反対する決議案を全会一致で採択し、
    必要であれば、韓国軍単独でも戦争を続けるという決意を固めます。
    困難な交渉の末、1953年7月27日午前10時、
    国連軍側と共産軍側の代表が休戦協定文に署名しました。
    そして、休戦協定発効時刻の22時ちょうどに、
    3年1か月2日間にわたり鳴り続いた砲声が、まるで嘘のように止みました。
[1951年7月10日] 休戦会談を開始, [1953年7月27日] 板門店で停戦協定に調印, [1953年10月1日] 韓米相互防衛条約を締結, 韓国戦争は休止しましたが、戦争が残した傷痕は今も残っています。 - 出典:韓国国防部

韓国戦争の結果

1950年6月25日から1953年7月27日まで
3年1か月、1129日間も続いたこの戦争で
韓国軍13万8000人が戦死し、45万人がけがを負いました。
行方不明者まで含めると、韓国軍の人命被害 はおよそ62万1000人に達します。
北韓軍の死亡者とけが人は52万人で、行方不明者まで含めると80万人です。
国連軍の被害も甚大なものでした。
死亡者およそ4万1000人、けが人およそ10万4000人、
行方不明者と捕虜を含めると15万5000人に達します。
それだけではありません。
韓国戦争は、軍人よりも民間人の方が大きな被害に遭った戦いでした。
虐殺、負傷、行方不明などで韓国の民間人100万人、
北韓の民間人155万人が犠牲になったと言われます。
南北を合わせると、当時の韓半島全体の人口の5分の1が被害を受けたと推定されるのです。

そして、戦争の影響は社会的・経済的な側面にも及びました。
韓国は、一般工業施設の43%、炭鉱施設の50%が破壊され、
被害総額は22億8105万ドルに上りました。

また、この戦争で1000万人の離散家族が生まれただけでなく、
30万人の女性が夫を、10万人の人が親を亡くし、
韓半島は今日に至るまで「世界唯一の分断国家」という悲しい呼び名を持つことになりました。

南北関係の閉塞期

~1969

1 北韓からの水害支援を韓国が拒否

1956年7月

1956年7月14日から10日間降り続いた大雨により、韓国全域が大きな被害を受けました。
68人の死傷者が発生し、被害額はおよそ43億7700万圜(ファン、当時の通貨)と集計されました。
これを受けて北韓の朝鮮赤十字会は27日、大韓赤十字社宛に
洪水による被災者に対する援助を提供するという意思を表明します。
しかし、李承晩(イ・スンマン)政権は北韓の支援の意思を「政治攻勢」と捉え、拒否しました。

한강수해광경2 한강수해광경3 Source : National Archives of Korea

2 南北体育会談の開催

1963年1月24日

IOC=国際オリンピック委員会が韓国と北韓に合同チームでのオリンピック出場を勧めたことによって、
韓国と北韓は1963年、スイスのローザンヌで合同チーム結成のための1回目の会談を開催します。
しかし、続いて開かれた2度の会談でも意見の隔たりを埋めることができず、
合同チームの結成は叶いませんでした。

3 青瓦台襲撃未遂事件

1968年1月21日

青瓦台襲撃未遂事件、いわゆる「1.21事態」は、北韓の特殊部隊が韓国の大統領府青瓦台を襲撃しようとした事件です。
北韓の武装ゲリラ31人は軍事境界線を越え、暗い時間帯に移動して首都圏への潜入に成功します。
しかし、青瓦台からわずか数百メートル離れた紫霞門(チャハムン)哨所で検問を受け、
警察官に手榴弾を投げて自動小銃を乱射するかたわら、
その場を通り過ぎようとしていたバスにも手榴弾を投げつけて帰宅中の多くの市民が犠牲になりました。
軍警は即時に工作員の掃討作戦に乗り出し、
身を隠していた金新朝(キム・シンジョ)を逮捕して28人を射殺しました。
この事件以降、南北関係は緊張が高まり、
韓国政府は、北韓による不正規戦に備えるために郷土予備軍を創設しました。

1.21사태무장공비사건현장 Source : National Archives of Korea

南北関係の胎動期

1970~1979

4 第1次南北赤十字の接触

1971年8月20日

1960年代まで国際的な冷戦ムードのなか、対話に乗り出せずにいた韓国と北韓は、
1970年代に入って対話の口火を切りました。
1971年8月20日、離散家族問題の解決に向けた「南北赤十字派遣員第1次接触」が
初めての南北対話だったのですが、
これは大韓赤十字社の提案に北韓が同意したことにより成立しました。
これをきっかけに、1972年8月から翌年の7月まで
離散家族の住所や生死の確認、訪問や再会、手紙の往来などを議題に
7回にわたって南北赤十字本会談が行われました。

1차 남북적십자예비회담 Source : KDAS

5 7.4南北共同声明

1972年7月4日

1971年末から翌年3月まで、韓国と北韓は南北の軍事境界線上にある板門店(パンムンジョム)で極秘接触を行いました。
この接触の成功によって
1972年5月初めには李厚洛(イ・フラク)中央情報部長の平壌訪問と
北韓の朴成哲(パク・ソンチョル)国家副主席のソウル訪問が実現し、
南北間の政治的な意見交換が初めて行われました。
そして、韓国と北韓は7月4日にソウルと平壌で
初の公式合意文書「7.4南北共同声明」を発表することになります。
南北が分断から27年で初めて合意した「自主・平和・民族大団結」の3大原則は、
その後の南北間で行われたすべての接触や対話における基本指針となりました。

남북공동성명발표관련신문 Source : National Archives of Korea

6 6.23宣言

1973年6月23日

南北対話が進められるなか、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は「6.23宣言」を発表します。
その主な内容は、▽韓国と北韓は互いに内政に干渉せず
▽南北の国連同時加盟や北韓の国際機関への参加に反対せず
▽「互惠平等」の原則の下、すべての国に対して門戸を開放する――というものです。
この宣言は、従来の敵対的かつ閉鎖的な統一政策から脱却し、
政府の積極的な平和統一に向けた意志を表明したという点で肯定的に評価できますが、
北韓はこれを「韓半島における2つの政府を認めることによって、
分断を永久化させるためのものだ」と非難し、それ以降、南北対話は再びこう着状態に陥ってしまいました。

6.23 평화통일외교선언 Source : KDAS

7 ポプラ事件

1976年8月18日

1976年8月18日、国連軍所属のアメリカ軍将校らが、共同警備区域の哨所
前方の視野を妨げていた1本のポプラを剪定しようとしました。
ところが、北韓軍がこれに対して問題を提起し、アメリカ軍と北韓軍が衝突。
北韓軍は労働者たちが逃げたあとに残された斧で
2人のアメリカ軍士官を惨殺します。
事件後、北韓は謝罪するどころか、
韓国とアメリカに対して責任者の処罰を要求してきました。
そこで、この問題を解決するために韓国軍と国連軍、北韓軍は会議を開きますが、そこでの交渉は決裂。
韓国戦争停戦後、初めて韓国駐在国連軍と韓国軍は「準戦時体制」に突入します。
しかし、ベトナム戦争で打撃を受けたアメリカも全面戦争には負担を感じていました。
結局、ポプラ並木を伐採することで事件を収束させることに合意し、
北韓の金日成(キム・イルソン)首席が表明した「遺憾の意」をアメリカが受け入れて一段落しました。
この事件をきっかけに、板門店にはコンクリートで作られたはっきりとした境界線ができました。

판문점도끼만행사건1 Source : National Archives of Korea

南北関係の定立期

1980~1987

8 アウンサン廟爆破事件

1983年10月9日

1983年10月9日、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領の西南アジア・大洋州6か国の公式歴訪の最初の訪問国だった ミャンマー(当時はビルマ連邦)の首都ヤンゴン(当時はラングーン)で
韓国から随行した政府要人や記者など17人が
北韓の工作員が設置した爆発物により死亡し、14人が重軽傷を負うという
世界の外交史上、前例のない大惨事が発生しました。
ミャンマー政府は主犯の2人を逮捕して死刑を言い渡し、
北韓との国交を断絶しました。
そして、翌年10月、ミャンマー政府は、アウンサン廟爆破事件は
北韓によるものだと国連に報告しました。
この事件により、3か国が北韓と断交し、69か国が北韓に対する糾弾声明を発表しました。

버마 아웅산묘소 폭발사건 치밀한 계획테러 1 버마 아웅산묘소 폭발사건 치밀한 계획테러 2 버마 아웅산묘소 폭발사건 치밀한 계획테러 3 Source : KDAS

9 北韓の韓国に対する水害支援

1984年9月29日~10月4日

1984年の夏、8月31日から5日間降り続いた豪雨によって、
ソウルでは過去最悪の洪水が起こりました。
災害からの復興に取り組みながら厳しい日々を送っていた9月8日、
北韓の朝鮮赤十字会が「同胞愛と人道主義の立場」から
韓国の被災者に対する救援物資をすると申し出ました。
大韓赤十字社は、9月14日に北側の提案を受け入れると発表。
北韓の支援物資は仁川港と板門店を通じて韓国側に送られ、
韓国戦争後、初の南北間の物資交流が行われました。
これは、アウンサン廟爆破事件で悪化した南北間に和解ムードを醸成しました。

북한측으로부터수해물자인수1 Source : National Archives of Korea 북한 적십자사가 보내온 수해물자 인수(시멘트) Source : e-history

10 初の南北離散家族再会

1985年9月20日

1985年9月20日から23日まで、南北赤十字本会談の合意に基づき、
分断以降、初の離散家族の故郷訪問と
芸術公演団のソウル・平壌への交換訪問が行われました。
離散家族の故郷訪問団は、韓国側団員のうち35人が平壌で、
北韓側団員のうち30人がソウルで、それぞれ家族と再会しました。
また、ソウル芸術団は平壌大劇場で、
平壌芸術団はソウル国立劇場でそれぞれ2回の公演を行いました。
これらの行事は、分断後に初めて南北の民間人が交流した事例となりました。

평양의 우리측 고향방문단 이산가족 상봉 평양의 우리측 고향방문단 이산가족 상봉 Source : KDAS

11 北韓の核拡散防止条約への加盟

1985年12月12日

北韓は1980年に寧辺(ヨンビョン)に独自開発した原子炉を、
1985年には核処理施設を建設したことで、国際社会の注目を集めました。
これを受けて、ソ連は核開発を中断するよう北韓を圧迫しました。
北韓は結局、1985年にIAEA=国際原子力機関のNPT=核拡散防止条約に加盟し、 その対価としてソ連から戦闘機などの軍事兵器支援を受けました。
しかし、北韓は保障措置協定の締結をめぐってIAEAと対立。
1992年1月30日、NPT加盟から6年で協定に署名しました。

12 大韓航空機爆破事件

1987年11月29日

1987年11月29日、イラクのバグダッドからソウルへと向かっていた
大韓航空の旅客機KE858便がインド洋上空で北韓の特殊工作員2人組によって爆破されました。
当時、韓国政府は調査を通じて
「北韓の指令を受けた工作員による航空機爆発テロ」という結論を出し、
容疑者の金賢姫(キム・ヒョニ)を韓国に護送しました。

1987년 KAL 858기 폭파_1 1987년 KAL 858기 폭파_2 Source : e-history

和解・協力の模索期

1988~1997

13 南北卓球統一チームの世界選手権優勝

1991年4月24日~5月6日

1991年4月に千葉県で開催された第41回世界卓球選手権大会に
分断後、初めて結成された南北合同チーム「コリア」が出場しました。
南北合同チームは、女子団体の決勝で世界最強の中国を破り、優勝を果たしました。
また、男子チームも団体戦でベスト4進出という優秀な成績を収めました。
この千葉大会で、チーム「コリア」が初めて使った「韓半島旗」と伝統民謡の「アリラン」は、その後も南北合同チームを象徴するものとして位置づけられています。

1991년 지바탁구세계선수권 KOREA 단일팀 출전_1 1991년 지바탁구세계선수권 KOREA 단일팀 출전_2 1991년 지바탁구세계선수권 KOREA 단일팀 출전_3 1991년 지바탁구세계선수권 KOREA 단일팀 출전_4 1991년 지바탁구세계선수권 KOREA 단일팀 출전_5 Source : KDAS

14 南北の国連同時加盟

1991年9月18日

1991年9月18日に開かれた第46回国連総会で、
韓国と北韓は、それぞれが別の国として同時に国連に加盟しました。
これにより、韓国と北韓は分断から46年、国連創設から46年を経て、
別の独立国家として国連加盟国になったのですが、
南北当局には本来、国連への加盟において大きな立場の差が見られました。
韓国は、国連に単独で加盟するとしていた一方、
北韓は、韓国の単独加盟には分断をこう着化させようとする意図があるとして反対しました。
しかし、冷戦の終息によって、ソ連や中国が反対しなくなったことで
韓国の国連加盟が現実味を帯び、
国際社会における孤立を懸念した北韓が同時に国連に加盟することを表明したのです。
南北の国連加盟により、韓国と北韓の国際的な位置づけが固まり、
南北関係の正常化や対外関係における新たな基盤が設けられました。

1991년 9월 18일 남북한 유엔 동시 가입과 남북 기본합의서 체결_1 1991년 9월 18일 남북한 유엔 동시 가입과 남북 기본합의서 체결_2 1991년 9월 18일 남북한 유엔 동시 가입과 남북 기본합의서 체결_3 1991년 9월 18일 남북한 유엔 동시 가입과 남북 기본합의서 체결_5 Source : KDAS

15 韓半島の非核化に関する共同宣言

1991年12月31日

1991年12月31日、韓半島の核問題の協議を目的とした3回の南北代表団の接触の末、
韓国と北韓の代表団は「韓半島の非核化に関する共同宣言」に合意しました。
この共同宣言には、核兵器の試験・製造・生産の禁止、
ウラニウム濃縮施設の保有禁止などに関する内容が含まれています。

남북 한반도 비핵화 공동선언 합의_1 남북 한반도 비핵화 공동선언 합의_2 Source : KDAS

16 北韓の核拡散防止条約脱退宣言

1993年3月12日

北韓は、1987年から1992年にかけて北京でアメリカとの関係改善に向けた会談を行いました。
ところが、要求が受け入れられなかった北韓は、
NPT=核拡散防止条約を脱退するという政府声明を発表します。
NPTを脱退するということは、事実上、核開発を行うということを意味するため、
国際社会に大きな不安をもたらしました。

1993년 북한 핵확산금지조약 탈퇴 선언_1 1993년 북한 핵확산금지조약 탈퇴 선언_2 1993년 북한 핵확산금지조약 탈퇴 선언_3 1993년 북한 핵확산금지조약 탈퇴 선언_4 Source : KDAS

17 米朝枠組み合意の締結

1994年10月21日

北韓のNPT脱退をめぐって、国際社会は国際平和を破壊する行為として
一斉に批判を浴びせ、制裁の準備に取り掛かりました。
しかし、アメリカは「中朝友好協力相互援助条約」による中国の軍事介入の可能性に負担を感じ、
北韓もまた、核開発による国際社会における長期的な孤立と、深刻化する経済難を懸念していました。
このため両国は交渉を行い、1994年10月、ジュネーブで米朝枠組み合意を締結します。
この合意は、北韓が核を凍結する代わりに、
アメリカは軽水炉2基の建設と重油の供給、政治的・経済的関係の完全な正常化を推進するという内容を骨子としています。

1994년 북미 제네바 합의 체결_1 1994년 북미 제네바 합의 체결_2 1994년 북미 제네바 합의 체결_4 Source : KDAS

和解・協力への進入期

1998~2007

18 鄭周永現代グループ名誉会長の北韓訪問

1998年6月・10月

現代グループの創業者、鄭周永(チョン・ジュヨン)会長が
1998年の6月と10月、牛1001頭を引き連れて板門店から北韓を訪問しました。
北韓の土地となった江原道(カンウォンド)通川郡(トンチョンぐん)で生まれ育った鄭周永会長は、
17歳の頃に、父親が牛を売って得た70ウォンをくすねて南側に家出して
仕事を始めたとされていますが、
当時、北から持ってきた牛1頭分の金額を返すために、
1001頭を引き連れて故郷の北韓を訪れたのです。
鄭周永会長の2度に渡る北韓訪問は、南北交流が活発になる契機づくりに大きく貢献しました。

1998년 정주영 현대그룹 명예회장 소떼 방북_1 1998년 정주영 현대그룹 명예회장 소떼 방북_2 Source : e-history

19 金剛山観光のスタート

1998年11月18日

1998年11月18日に始まった民間人の金剛山(クムガンサン)観光は、
南北分断50年の歴史の転換点となる大事件でした。
現代グループの10年間の努力と
金大中(キム・デジュン)政権の太陽政策が連動することで実現した南北協力の象徴ですが、
南北関係の悪化や好転により、金剛山観光事業も困難を強いられます。

1998년 11월 금강산관광 시작_1 1998년 11월 금강산관광 시작_2 Source : KDAS

20 第1延坪海戦

1999年6月15日

1999年6月15日午前、北韓の警備艇と魚雷艇4隻が
ワタリガニ漁船20隻と共にNLL=北方限界線から南に2キロの海域に侵入しました。
韓国海軍は警告放送を行ったあと、2回にわたって哨戒艇が体当たりして押し出そうとしましたが、北韓艦艇が発砲を行ったため応戦しました。
この第1延坪海戦で、韓国海軍の将兵7人がけがを負い、
北韓側は艦艇1隻が沈没し、5隻が損壊する などの被害を受けました。

1999년 제1연평해전_1 1999년 제1연평해전_2 Source : KDAS

21 6.15南北共同宣言

2000年6月15日

金大中大統領は1998年、就任のあいさつで南北首脳会談の可能性に言及し、
その言葉どおりに政府は北韓に南北首脳会談と特使の交換を提案しました。
そして2000年6月、ついに分断後初となる南北首脳会談が開催されます。
韓国の金大中大統領と北韓の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長は2000年6月13日から3日間、
平壌で会談を開き、「6.15南北共同宣言」を採択しました。
金大中大統領と金正日国防委員長の会談は、
敵対的関係を終息させ、統一時代を開く歴史的な転換点と評価されています。

2000 6·15 남북공동선언 Source : KDAS

22 京義線鉄道連結合意

2000年7月31日

南北分断以降、鉄道の京義線(キョンイせん)は南側の12キロと北側の8キロの区間が途切れたままの状態になっていました。
それが、2000年の「6.15南北共同宣言」以降に開催された南北長官級会談で、
復元連結事業が推し進められます。
その年の9月から、韓国は文山(ムンサン)から軍事境界線まで、
北韓は開城(ケソン)から軍事境界線までの鉄道工事を行いました。

2000년 7월 31일 경의선 철도연결 합의_1 2000년 7월 31일 경의선 철도연결 합의_2 Source : KDAS

23 第1次離散家族訪問団の相互訪問

2000年8月15日~8月18日

1985年9月に行われた離散家族の故郷訪問団と芸術公演団の交換訪問以降、
15年もの間進展がみられなかった離散家族問題は、
2000年6月に開かれた第1回南北赤十字会談での合意に基づき、
ソウルと平壌で1170人の離散家族が再会することになりました。
そして、2003年11月に開かれた第5回会談では
テレビ電話での面会を推し進め
2007年11月の第9回会談では規模の拡大や定例化に合意しました。
また、韓国と北韓は2008年2月5日、
「離散家族のビデオレター交換に関する合意書」を締結し、板門店の連絡官を通じてそれぞれ20家族 のビデオレターを交換しました。
このあと、2009年に第17回、2010年に第18回の再会が行われますが、
2010年末に発生した北韓による延坪島(ヨンピョンド)砲撃事件により中断。
しかし、2014年2月にまた再開して19回目の再会行事が行われ、
2015年8月25日に南北高官級接触合意文で
南北離散家族再会における方針が定められたことで、同年10月に第20回南北離散家族再会行事が実施されました。
その後、2018年の「4.27板門店宣言」で南北の首脳が再会に合意したことによって
2018年8月、金剛山で第21回南北離散家族再会行事が開かれました。

2000년 8월 제1차 이산가족방문단 교환 행사_1 2000년 8월 제1차 이산가족방문단 교환 행사_2 Source : KDAS

24 都羅山駅の開業

2002年4月11日

1906年に開通し、ソウルと新義州(シニジュ)を繋いでいた京義線は、韓国戦争により運行が中断されましたが、
2000年の「6.15南北首脳会談」後の措置としてソウル-新義州間の鉄道連結事業が合意されたことによって
復元工事が始まり、2002年4月に都羅山駅(トラサンえき)が開業しました。
都羅山駅は民間人出入統制区域内にあるため、ここから北へ行くことはできませんが、
金大中大統領とアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領が演説を行ってから
韓半島の統一を願う象徴的な場所となりました。

2002년 4월 11일 경의선 도라산역 개통_1 2002년 4월 11일 경의선 도라산역 개통_2 Source : KDAS

25 第2延坪海戦

2002年6月29日

韓日共催の2002FIFAワールドカップ3位決定戦が行われた6月29日、
北韓の警備艇2隻が韓半島西側の海、西海(ソヘ)のNLL=北峰限界線を侵犯し、
韓国海軍の哨戒艇に奇襲攻撃を加えたことで海戦が勃発しました。
南北の艦艇が艦砲と機関砲を打ち合う激戦となった第2延坪海戦です。
この戦いで韓国は、海軍艦長の尹永夏(ユン・ヨンハ)少領など将兵6人が戦死し、18人がけがを負ったほか、
チャムスリ級哨戒艇357号が沈没するという被害を受けました。
北韓もおよそ30人の死傷者を出し、哨戒艇トゥンサン岬684号が半壊した状態で退却しました。
第2延坪海戦は、2002年4月に韓国が北韓に特使を送り
南北関係の改善に合意した直後に発生したことから、国じゅうに衝撃を与えました。

2002년 6월 제2차 연평해전 Source : KDAS

26 北韓の核拡散防止条約脱退宣言

2003年1月10日

北韓とアメリカは、北韓が核視察に協力しないことやアメリカの軽水炉工事が遅延していることなどで
対立していましたが、2002年10月に高濃縮ウラニウム開発疑惑が浮上したことから
2度目の危機に直面しました。
そして北韓は、核凍結を解除して核施設の再稼働を宣言し、
2003年1月10日、政府声明を出して再びNPT=核拡散防止条約の脱退を宣言します。
北韓のNPT脱退宣言は、1970年のNPT発効以来、前例のないもので、
世界的な核拡散防止体制に対する重大な挑戦と言えます。

2003년 1월 10일_북한 핵확산금지조약(NPT)탈퇴선언_1 2003년 1월 10일_북한 핵확산금지조약(NPT)탈퇴선언_2 Source : KDAS

27 開城工業団地の着工

2003年6月15日

開城工業団地の造成は、韓国の資本と技術、北韓の土地と労働力が融合した
南北交流の新しいステージとなる歴史的な事業です。
2004年6月、モデル団地に15の企業が入居したことでスタートした開城工業団地は、
経済的な側面以外にも社会文化的に大きな意味を持っています。
開城工業団地が南北貿易に占める割合は
徐々に増加し、2015年には99.6%を占めるまでになりました。
また、開城工業団地は北韓の労働者5万4800人と韓国の800人が共に生産活動を繰り広げる
経済共同体、生活共同体として発展しました。
しかし、不安定な南北関係や北韓の核問題などにより、
操業は困難を極めました。
結局、北韓の4回目の核実験や長距離ミサイルの発射、
開城工業団地で支払われた賃金の核兵器開発への転用疑惑などによって、
2016年2月に韓国政府が全面操業停止措置をとり、現在も閉鎖された状態となっています。

개성공단착공_1 개성공단착공_2 Source : KDAS

28 北韓の核兵器保有宣言

2005年2月10日

北韓は2005年2月、外務省の声明を通じて 「自衛のために核兵器を作った」と核兵器の保有を公式に宣言しました。
その後、2012年4月、改正憲法に核保有国であることを明記しました。

북한핵무기보유선언_1 북한핵무기보유선언_2 북한핵무기보유선언_3 Source : KDAS

29 9.19共同声明の採択

2005年9月19日

2005年9月19日、第4回6か国協議で北韓は「すべての核兵器を放棄する」とする「決断」を国際社会に表明しました。
これを基に、韓国と北韓、アメリカ、中国、日本、ロシアの6か国の首席代表は、
いわゆる「9.19共同声明」を採択しました。
北韓の核放棄は、韓半島の非核化に直結するという点で、
平和体制構築の幕開けを意味するものでした。
しかし、共同声明直後にアメリカが北韓をテロ支援国家に指定し、
北韓も2006年7月にミサイル発射を発射し、同年10月に初の核実験を行って応酬したことで
「9.19共同宣言」は事実上の破棄されました。

공동성명채택_1 공동성명채택_1 Source : KDAS

30 北韓の初の核実験

2006年10月9日

2006年10月9日、周辺国の懸念、とくに中国の反対にもかかわらず、北韓が初の核実験を強行しました。
これを受けてアメリカは
北韓に対する強力な圧迫を意味する国連決議を主導しましたが、
対する北韓は、あらゆる手段を講じて戦争抑止力を強化していくと、真っ向から反発しました。
そして、各当事国は、大量破壊兵器の開発に関連する物資・設備・技術・資産の取り引きと移転を防止し、
これに関連する北韓関係者の入国や経由を禁止することを骨子とした
国連安保理決議案第1718号を採択します。

북한1차핵실험_1 북한1차핵실험_2 북한1차핵실험_3 북한1차핵실험_4 Source : KDAS

31 南北首脳会談と10.4宣言

2007年10月2日~10月4日

2007年10月2日から4日まで、韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が
平壌を訪問し、北韓の金正日国防委員長と首脳会談を開きました。
2000年6月に平壌で開かれた初の南北首脳会談に続くものであることから
第2次南北首脳会談とも呼ばれます。
盧武鉉大統領は10月2日、韓国の国家元首としては初めて、
歩いて軍事境界線を越え、北朝鮮の管轄地域に入りました。
その後、10月3日に平壌で南北首脳会談を開き、10月4日には「6.15南北共同宣言」を基礎とする
「南北関係の発展と平和反映のための宣言(10.4 宣言)」を採択します。
宣言文には、韓半島の核問題解決に向けた3か国または4か国首脳会談の推進、
南北経済協力事業の活性化、離散家族再会事業の拡大などに関する内容が盛り込まれました。

2007남북정상회담 Source : KBS News

南北関係の調整期

2008~2017

32 金剛山韓国客射殺事件

2008年7月11日

2008年上半期まで金剛山観光事業は量的にも質的にも活性化していました。
そんななか、誰も予期しなかった不幸な事件が発生します。
2008年7月11日、韓国の金剛山観光客が北韓の軍人に銃撃を受け死亡したのです。
政府は、これを国民の生命と安全にかかわる重大な問題と捉え、
2008年7月12日から金剛山観光を一時中断します。

금강산관광객피격사건_1 금강산관광객피격사건_2 Source : KDAS

33 北韓による2回目の核実験

2009年5月25日

2009年5月25日、北韓は2回目の核実験を敢行しました。
実験が行われた場所は1回目と同じく、咸鏡北道(ハムギョンブクト)吉州郡(キルジュぐん)豊渓里(プンゲり)でした。
国際社会は声を揃えてこれを非難し、国連安保理は
同年6月12日、制裁の強化を盛り込んだ対北韓制裁決議案1874号を採択しました。

북한2차핵실험실시_1 북한2차핵실험실시_2 북한2차핵실험실시_3 Source : KDAS

34 哨戒艦沈没事件

2010年3月26日

2010年3月26日21時22分、韓国海軍の1200トン級の哨戒艦「天安(チョナン)」が
北韓による魚雷攻撃を受けて沈没しました。
天安に乗っていた乗組員104人のうち58人が救助されましたが、
46人が行方不明となり、死亡しました。
韓国軍は公正な事故の原因調査のため、同月にアメリカ、イギリス、オーストラリア、スウェーデンの4か国の専門家を含む官民合同調査団を組織し、原因の究明に着手しました。
そして合同調査団は5月、事故海域から引き揚げた魚雷(CHT-02D)の推進体が北韓のものと一致することなどを根拠に、天安の沈没は北韓によるものだという結論を明らかにしました。

천안함피격북한소행_1 천안함피격북한소행_2 Source : KDAS

35 5.24対北韓制裁措置の実行

2010年5月24日

哨戒艦「天安」の沈没が北韓の攻撃によるものだということが明らかになったことを受けて韓国政府は、
北韓の追加の挑発を遮断し、
挑発にはそれに相応する責任が伴うということを北韓に認識させるため、
強力かつ即刻的な対北韓制裁措置を断行しました。
いわゆる「5.24措置」と呼ばれるものです。
開城工業団地と金剛山を除く北韓訪問の禁止、南北貿易の中断、北韓に対する新規投資の禁止、
北韓船舶の韓国海域の運航禁止、対北韓支援事業の原則的な保留などが
主な内容として盛り込まれています。

524조치 Source : e-history

36 延坪島砲撃事件

2010年11月23日

北韓は2010年11月23日、韓国の領土、延坪島に対する砲撃を行いました。
これは延坪島内の軍部隊だけでなく、民家にも
及びました。
この砲撃で韓国海兵2人が死亡、16人が重軽傷を負ったほか、
民間人も2人が死亡し、多数のけが人が発生しました。
また、133棟の建物が破損し、住民の暮らしにも大きな被害を与えました。
延坪島砲撃事件は、韓国戦争以来初めての韓国領土への攻撃であるという点と
民間人を区別せずに行う無差別攻撃だったという点で、
韓半島の平和を根底から揺るがす極めて重大な挑発事件と言えます。

연평도포격사건 Source : KDAS

37 北韓による3回目の核実験

2013年2月12日

北韓は2013年2月12日、1回目と2回目の核実験を行った咸鏡北道吉州郡豊渓里で
3回目の核実験を敢行しました。
これに対してアメリカや中国など国際社会の非難が相次ぎ、
国連安保理は決議案第2094号を採択して北韓に対する強力な制裁を加えることに決め、
中国を含むほとんどの国が対北韓制裁に賛同しました。

북한3차핵실험실시_1 북한3차핵실험실시_2 Source : KDAS

38 北韓による4回目の核実験

2016年1月6日

北韓は2016年1月6日、3度にわたり核実験を行った咸鏡北道吉州郡豊渓里で4回目の核実験を行いました。
国際社会は国連安保理を中心に、北韓に対するより強力な制裁について議論し、
その結果として国連安保理が2016年3月2日に採択した対北韓制裁決議案第2270号は、
非軍事的な措置としては最も強力で実効性のある制裁と評価されます。
とくに、韓国はこの核実験や長距離ミサイルの試験発射に対する対応措置の一環として
開城工業団地の操業を暫定的に停止しました。

북한4차핵실험실시_1 북한4차핵실험실시_2 북한4차핵실험실시_3 Source : KDAS

39 開城工業団地の操業停止

2016年2月10日

南北協力の代表的な事例とされる開城工業団地は2016年、操業停止の危機に直面しました。
朴槿恵(パク・クネ)政権は、北韓の4回目の核実験や相次ぐ長距離ミサイルの試験発射に対応して
2月10日、開城工業団地の操業を全面停止すると発表し、
翌日に北韓は工業団地の閉鎖と韓国資産の凍結、韓国側関係者の追放で対抗しました。
突然の工業団地閉鎖によって韓国企業は甚大な被害を受け、
現在でも操業は止まったままの状態です。

개성공단 가동 중단 Source : KDAS

40 北韓による5回目の核実験

2016年9月9日

北韓は2016年9月9日、咸鏡北道吉州郡豊渓里で5回目の核実験を行いました。
これにより北韓は核弾頭を搭載したミサイルを保有しており、
実戦配備に一層近付いていると推測されました。
これを受けて国際社会は、追加の制裁措置を盛り込んだ国連安保理決議案第2321号を採択しました。

북한5차핵실험_1 북한5차핵실험_1 Source : KDAS

41 北韓による6回目の核実験

2017年9月3日

北韓は2017年9月3日、咸鏡北道吉州郡豊渓里で6回目の核実験を行いました。
2016年9月の5回目の核実験から1年ぶり、
文在寅(ムン・ジェイン)政権とアメリカのトランプ政権発足後初めてです。
国連安保理は、北韓の6回目の核実験を受けて国連安保理決議案第2375号を採択しました。

북한6차핵실험_1 북한6차핵실험_2 북한6차핵실험_3 Source : KDAS

南北関係の転換期

2018~

42 平昌オリンピックの南北共同入場と女子アイスホッケー合同チームの結成

2018年2月9日~2月25

平昌オリンピック開幕を20日後に控え、韓国と北韓は突然
開会式での共同入場と合同チームの結成に合意しました。
そして、女子アイスホッケーの代表チームが総合大会初の南北合同チームとして結成されました。
短い期間で「ひとつのチーム」を作り上げた合同チームによって、
世界唯一の分断国家で開催された平昌オリンピックは、
オリンピック精神に適う「平和オリンピック」の意味を持つことができました。

평창동계올림픽남북단일아이스하키_1 평창동계올림픽남북단일아이스하키_2 Source : KDAS

43 4.27南北首脳会談

2018年4月27日

2018年4月27日、史上3回目となる南北首脳会談が
板門店の韓国側施設「平和の家」で開かれました。
北韓の最高指導者が韓国の地に足を踏み入れたのはこれが初めてで、
南北の両首脳は手を繋いで軍事境界線を越えました。
そして、韓国の文在寅大統領と北韓の金正恩国務委員長は
同席者を交えず虚心坦懐に対話を交わし、共に壇上に立って平和時代の幕開けを宣言しました。
これらの様子はすべて全世界に生中継されました。
両首脳は会談を終えたあと、共同で
「韓半島の平和と繁栄、統一のための板門店宣言」を発表。
この板門店宣言は、「完全な非核化を通じた核のない韓半島の実現」という
共通の目標を確認したという点で大きな意義があります。

2018427남북정상회담 Source : KBS News

44 世界卓球選手権スウェーデン大会での南北単一チーム

2018年4月29日~5月6日

スウェーデンで開かれた世界卓球選手権大会の女子団体で、南北合同チームが結成されました。
準決勝で日本に敗れましたが、
南北の選手全員が表彰台に上り、銅メダルを首にかけて喜びを分かち合いました。

스웨덴세계탁구선수권단일팀 Source : Yonhap News Agency

45 5.26南北首脳会談

2018年5月26日

2018年4月27日に南北首脳会談が行われてから1か月後の5月25日、
南北の両首脳は、板門店北側の統一閣で、2018年2回目の首脳会談を開きました。
当日の午後に金正恩国務委員長が一切の形式を排除して
文在寅大統領に会いたいという意思を伝え、文大統領がこれを快く受け入れたということです。
電撃的に開かれたこの会談で両首脳は
胸襟を開いた対話を交わし、
韓半島の非核化や恒久的な平和体制構築に向けた努力は
決して中断してはならないという点を改めて確認。
このために緊密に協力することで合意しました。

2018년 5월 26:5.26 남북정상회담 Source : KBS News

46 6.12シンガポール米朝首脳会談

2018年6月12日

北韓の金正恩国務委員長とアメリカのトランプ大統領は、
2018年6月12日、シンガポールで米朝首脳会談を開催しました。
米朝首脳間の会談が開かれたのは、1953年の分断協定後初めてのことです。
ここで、トランプ大統領は北韓に対して体制の安定を、
金委員長は韓半島の完全な非核化を約束しました。
米朝首脳会談は、新たな未来を切り開く歴史的なイベントでしたが、
共同声明に「完全で検証可能かつ不可逆的な非核化(CVID)」が明記されなかった点はついては、
課題が残るという指摘があります。

싱가포르북미정상회담 Source : Yonhap News Agency

47 2018年アジア競技大会での合同チーム出場

2018年8月

韓国と北韓は、インドネシアのジャカルタとパレンバンで開催されたアジア大会の3つの種目に、南北合同チームを出場させることで合意しました。
そして、バスケットボール、カヌー、ボート競技の合同チームを結成。
韓国でも北韓でもないチーム「コリア」として出場し、
総合28位(金メダル1個、銀メダル1個、銅メダル2個)を記録しました。

자카르타팔렘방아시안게임 Source : KBS News

48 2018年南北首脳会談

2018年9月18日~20日

2018年9月18日から3日間、北韓の平壌で
文在寅大統領と金正恩国務委員長の3回目の首脳会談が開催されました。
韓国の大統領の平壌訪問は2000年の金大中大統領、2007年の盧武鉉大統領に続き3回目で、
両首脳は、非核化など軍事的な緊張緩和措置はもちろん、鉄道・道路構築など南北経済協力に関連する内容が盛り込まれた「9月平壌共同宣言」を発表しました。
また、両首脳による合意文への署名の直後には、韓国の宋永武(ソン・ヨンム)国防部長官と北韓の努光鉄(ノ・グァンチョル)人民武力相が
「歴史的な板門店宣言の履行に向けた軍事分野合意書」に署名。
翌19日には、文在寅大統領が韓国の大統領としては初めて
15万人におよぶ平壌市民の前で公開演説を行いました。
北韓訪問の最終日となる9月20日には、両首脳の白頭山訪問が行われましたが、
白頭山の火口湖・天池(チョンジ)を見下ろす場所で南北首脳が結んだ手を高く挙げた場面は、
会談の名場面に挙げられます。

평양공동선언 Source : Yonhap News Agency

49 鉄道ㆍ道路の連結および現代化事業の着工式(京義線ㆍ東海線)

2018年12月26日

南北韓の鉄道ㆍ道路の連結および現代化事業の着工式が
2018年12月26日に開城の板門(パンムン)駅で開催されました。
南北の鉄道が連結されれば韓半島縦断鉄道(TKR)が完成し、中国、モンゴル横断鉄道を通じてヨーロッパにまで繋がることになります。

경의선동해선 철도도로 연결 및 현대화착공식_1 경의선동해선 철도도로 연결 및 현대화착공식_2 경의선동해선 철도도로 연결 및 현대화착공식_3 Source : KDAS

50 南北米首脳の板門店での対面

2019年6月30日

文在寅大統領と北韓の金正恩国務委員長、そしてアメリカのトランプ大統領は、
2019年6月30日、史上初めて板門店で、南北米の首脳による面会を行いました。
この日、トランプ大統領は、板門店の軍事境界線を挟んで金委員長と対面し、
アメリカの現職大統領として初めて境界線の北側に足を踏み入れました。
これに続き金委員長もまた、北韓入りしたトランプ大統領と並んで軍事境界線をまたぎ、今度は南側に入りました。
その後、両首脳は、
「自由の家」の前で待っていた文在寅大統領と共に南北米の首脳による板門店で面会。
さらに、米朝首脳が会談を行い、トランプ大統領が米朝実務交渉の再開を発表しました。

2019년 남북미 정상 판문점 회동 Source : KBS News